しらすちゃんがうちに来てから、いろんなことが変わりました。そして、学んでいます。私は子供が欲しかったんですが、残念ながらご縁がなく、でも、これってきっと子育てして追体験するたくさんのお母さんの気持ちに近いものもあるだろうなぁと。それは、思いがけない贈り物です。
しらすちゃんがうちに来てから、私が怒ったことはほとんどありません。けんかも一回だけしかないです。しらすちゃんは家の中のものをひっかかないし、粗相をするということもほとんどないのです。ビーズクッションがあった時、何回かありましたが、でも、それがなくなったら、もうしなくなりました。多分原因は、その頃は私もまだ慣れなくて、お互いストレスが大きかったこともあるでしょう。
確かに、お水が入っていた器を倒してしまうことは何回かありました。でも、私はそんなに怒らないし、リアクションも薄いのです。わざとじゃないし、拭いたら直るし、直らないものは買えばいいから。しらすちゃんは最初、何か失敗しちゃった時、すごく怖そうに申し訳なさそうにしていたのですが、私がただ「大丈夫?これは倒れないところにおいておこう」みたいなことを言うだけだったりすることが続いたら、慣れてきた様子で、心配そうに溢れた水や、それを拭く私を見てますが、その後も、普通に走り回って遊んでいます。でも、同じ失敗はもうしないのです。
わがままを言う時もあります。しらすちゃんには「ごめんなさい」があって、わがままを言って、私を蹴っちゃったり、引っ掻いちゃったりした時は、すぐ、コロンとして、お腹をみせます。ごめんねと。大抵は、そこで、お腹を撫でながら、ちゃんと「これはしないでね。これは嫌だよ。」と話しながら伝えます。しらすちゃんはすごくて、大体理解してるみたいです。
この間、ものすごく久しぶりに、自分に害が及ぶと相手を罰するというパターンを持っている人に接していて「ああこれって覚えがあるなぁ」と思ったのです。そして、私はこれ全然しないなぁとも思ったのです。それは「しなくなった」なのか、それとも、そもそも「しない」タイプなのか、両方なのか今となっては、もう、判別がつかなくなっています。でも、私の住んでいた家では、ランダムに罰すると言うのは日常的なことだったので「ああ、これって覚えがあるなぁ」と思ったのです。
そこにはルールや原則があるわけじゃなくて、単にキレる人の気分によって、罰が与えられるので、避ける方法もないし、正す方法もないのですが、でもまぁ、怒ってるのは大人で、親なので、正当な理論を突きつけるわけです。「お前のこれが悪かった。ここを直しなさい。」的な。でも、どんなに直したって、彼らのキレるのは変わらないわけです。そもそもそれは彼らの問題だから。
つまり、これはランダムに日常の中に危険が潜んでいる。次に何が起こるかわからない。誰がどんな理由で爆発するか予測がつかないと言う状態です。そこに帰るしかないし、それが「お家」だったわけです。たったひとつの。
これはものすごくストレスのかかることだし、子供が普通に育つことができる環境ではないです。
しらすちゃんと暮らしていて、すごく良かったなぁと思うことのひとつは、彼女がいつも、とてもリラックスしていること。私も怒らなくていいのですが、しらすちゃんも私の顔色を伺うことはないのです。どうやったら負担がかからないでお互いが楽しめるかなぁと言うことはお互いにいつも考えてますが、予測ができないことがないのです。しらすちゃんがキレることもないし、私がキレることもないからです。
もちろん、私も最初からこうだったわけではなくて、初めの頃はちゃんとしらすちゃんが甘える時「これは私にはなかったなぁ。羨ましいなぁ」という痛みを何回も経験しました。その度に、その痛い感じを、ぎゅっと持ったままにして、しらすちゃんには甘えてもらって、そのあと、自分を撫でてました。でもいつも、きっと長い目で見ると、しらすちゃんに甘えてもらった方が、結果、お互いに良い循環が早く生まれるだろうと考えたのです。実際にそうでした。
罰というのは、本来教育の中で必要ないものなんじゃないかなと私は思います。実体験から。丁寧に、何がどう嫌なのか、どうしてそれが起きたのか、どうしたらお互いに心地良く過ごせるのか、それが話し合える時(しらすちゃんとは行動で話し合います)、もうすでに大変なことが起きているのに、そして、しらすちゃんはそのことをしまったと思っているのに、それをだめ押しするような上書きは、無駄なんじゃないかなぁと。それは私が失敗した時もそうです。
相手の反応が予測できる安心の場所に住んでいる時、これらのことは不必要になるし、安心の中で、もっとお互いがお互いを楽しめる世界が広がっている。お互いにもっと面白いことを一緒に作り出していける世界が広がっている。そういうことを私は今、実感しています。そして、暮らしています。
キレる人たちが、罰することで得るのは、束の間の安堵感です。ほんの一瞬。でもそれは見せかけなので、すぐ消えます。だから、また何かでそれを誤魔化すことがエンドレスに必要になってきます。そして、誰かを罰している時、私たちは実は自分たちをもそこで裁いています。それって手放すことができるよと、そっちの方が楽だよ。と、ちょっと遠くから見ていて、今は思います。しらすちゃんとの間で、辛抱強く育んできた何かは、それが本当だと毎分、毎秒、毎日教えてくれます。




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